2021年の記録

聞き取り調査の進展

 20年11月に天神北の皆さんのおかげで出会うことのできた、列車銃撃の犠牲になられた鈴木磯吉さんと髙阪光雄さんのご遺族からの聞き取り調査を7月~8月に行いました。また、列車の中で銃撃を受けた方から連絡を頂き、8月に聞き取り調査を行いました。

 

〇髙阪光雄さん(享年9ヶ月)

「首のない赤ちゃん」として地域の方に鮮烈な記憶を残し、亀山列車銃撃の悲惨さを伝える象徴になっている方のお名前と詳細がわかりました。

 この赤ちゃんのお名前は髙阪光雄さんで、亡くなった時は生後9ヶ月でした。蟹江町(愛知県)の方で、7月にご遺族(お兄さん。1941年生まれ)からお話を伺いました。実家の蟹江で買い出しをして、母、兄、姉、弟(光雄さん)と疎開先の三瀬谷(大台町)に戻る途中でした。

 お兄さんもまだ4才なので細かな記憶はほとんどありませんが、はっきり覚えていることが3つあるそうです。

 その一つが大騒動になっていた列車の様子です。列車が停まって、誰かが「伏せろ!」と大声で言ったので車両の通路に伏せ、その上からお母さんが覆いかぶさって守ってくれました。お母さんに負ばれていた光雄さんはギャーギャーと泣いていましたが、急に泣くのが止まったそうです。

 また、駅の診療所の様子も覚えてみえました。たくさんの人が痛くてわめいていて、その悲鳴が恐ろしかったそうです。

「首のない赤ちゃん」と伝えられていますが、実際には頭の後ろがなくなっていて、顔は残っていたそうです。今後は伝え方の工夫が必要です。

 20年ほど前にお兄さんはお母さんと一緒に亀山まで来られたそうです。その頃と変わらない風景で、線路際に花を供えてお参りしたそうです。「近くに慰霊碑も何もなく、どんな町だと思った」と語られるお兄さん。お母さんも2008年に亡くなられたそうで、もう少し早く活動ができていればと悔やまれます。

 

〇鈴木磯吉さん(享年55才)

 鈴鹿地方事務所の初代所長であった鈴木さんは早くから犠牲者として知られていましたが、享年やご住所などは不明のままでした。

 昨年11月に天神北の方を通して、鈴木さんのご遺族から戸籍謄本とお写真を頂き、鈴木さんが当時55才だったことと、漕代村(現・松阪市)の 

鈴木磯吉さん
鈴木磯吉さん

方だったことがわかりました。そして、今年8月にお孫さん(鈴鹿市在住)にお話を伺いました。

 鈴鹿地方事務所は、今の県民局のような所で、亀山や鈴鹿だけでなく県の北部まで管轄した県の役所でした。鈴木さんは県の偉い人で、亀山で寝泊まりするために引っ越した時は県の若い職員が手伝いに来ていたそうです。県庁から初代の鈴鹿地方事務所の所長になり、次は鈴鹿市の助役(現在の副市長)になる予定だったそうです。

 鈴木さんはいつも姿勢良くすっと立っていて、銃撃を受けた時も背筋を伸ばして座っていたからこんなことになったと伯母さんから聞かれたそうです。このお話を聞いて、白木一さん(菰野町)にお聞きした「50才ぐらいの男性が行儀よく座席に座ったまま、顔面蒼白で眠っているように見えましが、おそらく即死であったと思います。この方は軍服ではなく一般の服装をしていました」というお話を思い出しました。

 もうお一人、松阪にみえるお孫さんからもお話を伺う予定です。

 

〇亀山列車銃撃は1回ではなかった

 鈴鹿市在住のK・Y子さん(非公表)のご家族から「銃撃された列車に乗っていた」という連絡を頂き、8月に聞き取り調査に伺いました。

 Y子さんは1929年のお生まれですが、当時のことを詳しく鮮明に語られ、同席されたお子さんも驚かれるほどでした。

 合川村(現・鈴鹿市)から亀山の鈴鹿高等女学校に通っていたY子さんが帰りの列車に乗ったのはお昼すぎ。鈴鹿川の橋を渡った時に川下から2機の黒いグラマンが近づいて来たので、友だちと2人で客車と客車の間のデッキに逃げてしゃがみこんでいると、ババババと音がして頭の上で白い煙が立ったそうです。けがはありませんでしたが、別の友だちは背中に破片が当たってけがをしたそうです。

 とても鮮明な記憶ですが、8月2日の陸軍機P51による空襲とは様相が違います。以前から「グラマンだった」という証言がありましたが、今回のお話で海軍機グラマンによる列車銃撃もあった可能性が高くなりました。

 おそらくこの空襲は8月2日以前にあり、その後に起きた8月2日の銃撃があまりに凄惨だったために忘れられたのでしょう。これからも調査を続けます。 

戦争を語り継ぐ~広島から 亀山から~

21年7月24日(土)~25日(日) 亀山エコー、市立図書館、市民協働センター、高村書店

亀山エコー会場(2階多目的ホール)
亀山エコー会場(2階多目的ホール)

 今年もパネル展を開催しました。恒例のエコー会場での「亀山の戦争遺跡・列車銃撃」パネル展に加え、今年は広島の高校生が描いた「原爆の絵」(レプリカ)も展示しました。

「原爆の絵」は広島市基町高校の生徒さんが、被爆体験をした方のお話を聞きながらその光景を絵で表現したものです。どれも迫力のある絵でした。枚数がたくさんあったので、エコーに17枚のほか、亀山市立図書館に7枚、市民協働センターに36枚、市内の高村書店さんに3枚展示しました。

 特に高校生の絵の反響は大きく、もっと長い期間展示してほしいという声も頂きました。2日間で230名の方に見て頂きました。4会場すべて見学された方もいらっしゃいました。

 戦争遺跡や列車銃撃についてもパネル展示を毎年おこない、より多くの市民や子どもたちに伝えていきます。

平和を考える市民のつどい 今年も開催しました

21年8月2日(月) 9:30~11:30 亀山市天神・中村公民館

 亀山で列車銃撃があり、多くの犠牲者を出した8月2日。

 列車銃撃から76年目の今年も、この日に犠牲になられた方を追悼し、平和について考える集いを開催しました。

 最初に「若手僧侶の会サンガ」の皆さんによる法要。犠牲になられた方を偲び、お焼香をしました。 

サンガの皆さんの読経の中、参加者でご焼香。
サンガの皆さんの読経の中、参加者でご焼香。
40名をこえる参加がありました。
40名をこえる参加がありました。

 集会のあと、希望される方に列車銃撃現場の見学会をしました。

 この日に合わせて頂いたかのように、線路の土堤や、その前の民有地の草がきれいに刈ってもらってあり、これまでで一番見やすかったです。どうもありがとうございました。

 今年新しくお二人の犠牲者のことがわかったのは、地元の天神北の皆さまが説明板を見られたご遺族の方とつながり、私たちの会に伝えて下さったからこそです。地元の皆さまのご厚意と、列車銃撃の語り継ぎに対するご理解の深さに感謝いたします。これからもご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。

 今年のつどいは地元をはじめ、東海3県で新聞・テレビで報道されました。中日新聞、読売新聞、伊勢新聞、朝日新聞、赤旗新聞、NHK津放送局、中京テレビ、ZTVの皆さん、ありがとうございました。

中村公民館で追悼集会
中村公民館で追悼集会

 その後、説明板の前で追悼集会を開催。市長と市議会議長のご挨拶(市長は副市長代読)のあと、服部代表による話、記名板に記された方々の紹介をしました。今年は、「首のない赤ちゃん」として語られてきた髙阪光雄さん(9ヶ月)のお名前を記名板に新しく記すことができました。また、鈴木磯吉さんの詳細も加えることができました。

服部代表の話
服部代表の話
現地見学会
現地見学会

銃撃された蒸気機関車の写真を頂きました!   21年8月

 嬉しいニュースです。

 今年8月2日の平和の集いに参加して下さった伊勢市の川井一彦さんのご尽力で、1945年8月2日に亀山で銃撃された蒸気機関車C5163号機の写真が見つかりました。

 写真をお持ちだったのは京都市の福田静二さんで、撮影などの鉄道を趣味とされている方々の間で著名な方です。川井さんのご依頼を受けて福田さんが膨大な写真の中から2枚の写真を探し出して下さいました。

 この写真は、福田さんも別の方から譲り受けたもので、撮影日時や場所など詳細は不明ですが、貴重な写真を頂けたことを嬉しく思います。本当にありがとうございました。

 川井さんによりますと、C5163号機は銃撃によりボイラーや運転室などに損傷を受けましたが、修理されて復帰して亀山~鳥羽間で活躍を続け、1962年2月に伊勢機関区で廃車になったそうです。

福田 静二氏(京都市)ご提供
福田 静二氏(京都市)ご提供
福田 静二氏(京都市)ご提供
福田 静二氏(京都市)ご提供

 ※ なお、この画像を複写・転載される場合は、当会まで必ずお知らせ下さい。無断転用などはなさらぬ様、よろしくお願い致します。