最終更新は2024年3月25日です。
1945年8月2日(木)の列車銃撃では、少なくとも40名を越える犠牲者が出たと言われています。たまたまその列車に乗り合わせた方が犠牲になったので、亀山と地縁や血縁のない方も多く、調査は難航しています。
それでも、多くの方のご協力により、これまでに9名のお名前が判明しました。
亡くなられた年齢順にご紹介します。
鈴木 磯吉さん(55才)
鈴木さんは亀山にあった鈴鹿地方事務所の所長をされていました。鈴鹿地方事務所は県の機関で、現在の県民局に当たります。県の要職を務められ、次期の鈴鹿市副市長にも内定していたそうです。ご自宅は漕代村(現・松阪市)でしたが、当時は亀山で寝泊まりされていたそうです。
銃撃の時も公務中でした。そのため、早い時期からお名前が知られていて「亀山市のあゆみ」にも掲載されています。
2019年に天神北の方のご厚意で、中村公民館前の説明板を偶然見られたご遺族と連絡を取れるようになり、さらに詳しいお話を聞かせてもらうことができました。
鈴木さんのお孫さんによると、鈴木さんはいつも姿勢が良く、すっと立っていたそうで、「銃撃の時も背筋を伸ばして座席に座っていたからこんなことになった」と伯母から聞かれたそうです。
銃撃された列車に乗っていた白木 一さんが「(2両目の)座席では50才ぐらいの男性が行儀良く座席に座ったまま、顔面蒼白で眠っているように見えましたが、おそらく即死であったと思います。この方は軍服ではなく一般の服装をしていました。」(『かけはし』2号から抜粋)と証言されていますが、あるいはこの方が鈴木さんだったのかも知れません。
大橋 利夫さん(48才)
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大橋さんは三重郡菰野町奥郷の方で、軍の動員で本土戦陣地を作るために、多くの同郷の方々と三重県の志摩半島へ向かう途中でした。7月31日に出発しましたが、津の空襲が激しくて引き返し、この日再出発したそうです。それまでに何回も他の人が出かけていたので、仕事に必要なつるはしやスコップ、木を切るためののこぎりを持って行きました。
一番後ろの車両で少し年上の友だちと一緒に、娘さんが作られたおにぎりを少し食べた時に銃撃に遭いました。娘さんによると、銃弾は右腕を貫通して右脇腹に入り、左脇腹から出ていました。左脇腹が大きくえぐれて、そこを縫い合わせてもらってありました。(『かけはし』2号から抜粋)
銃撃後、加佐登(現・鈴鹿市)にあった亀山陸軍病院に運ばれますが、娘さんが2日の夜に到着した時には冷たくなっていたそうです。翌日、奥郷の組の人たちがリヤカーで遺体を取りに行き、夕方に奥郷に着いたそうです。
土井 藤之助さん(48才)
土井藤之助(とうのすけ)さんは、三重郡菰野町の湯の山温泉にあった旅館「香雪軒」(後の近鉄観光ホテル)の板前でした。前述の大橋さんと同じで、軍の動員で本土戦陣地を作るために、三重県の志摩半島へ向かう途中でした。
遺体は、奥様と長女が引き取りに行かれたそうです。
この日は菰野町から動員された軍属の方が多数列車に乗っていたので、菰野町で犠牲になった方が多くわかっています。乗っていた人数が多いことと、犠牲になった方をご存知の方が多かったのが理由です。
平野 新七さん(47才)
平野さんは三重郡菰野町神森の方で、大橋さんや土井さんと同じく、軍の動員で本土戦陣地を作るために、三重県の志摩半島へ向かう途中でした。
前述の大橋さんの娘さんが、亀山陸軍病院(鈴鹿市加佐登)にお父さんのご遺体を引き取りに行った時に、お父さんの右側に寝かされていた方は平野新七さんだと病院の方から聞かれています。(『かけはし』2号から抜粋)
8月2日の夜にご遺体と同じ部屋で夜を明かされたのは、大橋さんと平野さんのご遺族だけだったそうです(『かけはし』2号から抜粋)。新七さんをお迎えに行かれた方はわかっていません。
上村 綱五郎さん(42才) 銃撃された汽車の機関士
上村さんは京都の方ですが、国鉄に就職されて貴生川から亀山に転勤され、市内の官舎で住まれていました。
銃撃された機関車を運転されていた機関士です。
銃撃によって後頭部を弾が貫通して亡くなられました。
亀山駅で勤務されていた中根 薫さんは、「機関区の湯飲み場に寝かされていました。湯飲み場は4畳ぐらいの畳部屋でした」と語られ(『かけはし』2号から抜粋)、亀山車掌区で勤務されていた前田寛一さんは、「列車内で生きている人をだいたい運んでから、服の血がくさいので車掌区の2階に上がったら、機関士と機関助士が寝かされていて、どちらかの人の顔はもう真っ白で、これはあかんなと思いました。息も吐くぐらいの音しか聞こえませんでした。2人の周りを先輩たちが取り巻いていたので、私は近くには行けませんでした」と語られています(『かけはし』3号から抜粋)。
その後、息子さんも国鉄に入って亀山の機関区で勤務され、亀山市内に家を建てられたそうです。
加太きみさん(24才)
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加太さんは結婚されて津市に住んでみえましたが、実家は亀山にありました。
結婚された方は、結婚してすぐに兵隊に取られて亡くなったそうです。
この日は実家に来られていて、実母が「ゆっくりしていきな」と言いましたが、急いで津に戻られる途中でした。
現在確認されている犠牲者の中では、ただ一人の女性です。
今のところ、ご遺族との連絡も取れておらず、詳細はこれからの課題です。
お心当たりのある方がみえましたら、ぜひお知らせ下さい。
伊藤照男さん(17才)
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伊藤照男さんは現在の桑名市長島町の方で、兄が善一さん、次兄が善男さん、照男さんは一番下の弟でした。
善男さんの奥さんの喜代子さんが、生前の善男さんから聞かれたお話によると、照男さんは近鉄多度駅の駅員をされていました。兄の善一さんが肺の病気か何かで、現在の津市久居にあった陸軍病院に入院されていて、この日照男さんは善一さんのお見舞いに行く途中でした。ご遺体をどうやって運ばれたのかはわかりませんが、お葬式は家でされたそうです。善一さんも病院からお葬式に来られましたが、その後すぐに亡くなったそうです。
照男さんが亡くなった時、多度駅に勤めて2年ぐらいだったと聞いてみえるそうです。
その後の伊勢湾台風で、照男さんの写真も遺品もすべて流されてしまったそうです。
髙阪光雄さん(9ヶ月)
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亀山列車銃撃の悲惨さを物語る象徴になっているのが「頭の後ろがない赤ちゃん」を負ぶったお母さんです。その赤ちゃんが髙阪光雄さんでした。その日、実家のある蟹江町(愛知県)に買い出しに行き、疎開先の三瀬谷(大台町)に戻る途中でした。光雄さんを負ぶったお母さん(30才)と一緒に、長女(9才)、長男(8才)、次男(3才)が列車に乗っていました。銃撃の時、誰かが「伏せろ!」と言って、みんな座席の下などに潜り込みましたが、脚の悪い次男は通路に伏せ、お母さんは次男の上に覆いかぶさりました。光雄さんはお母さんの背中で激しく泣いていましたが、急に止まったので、長女は泣き止まったと思ったそうです。駅の診療所で、銃弾で亡くなっていた頭の後ろに綿を詰めてもらって、風呂敷に包まれた光雄さんは蟹江に戻ったそうです。なお、亀山での証言では「首のない赤ちゃん」と言われていましたが、首や顔はちゃんと残っていて、頭の後ろがなくなっていたことがわかっています。わずか9ヶ月の命でした。写真も残っていません。
曽根さん(享年不明)
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菰野から志摩半島へ本土戦陣地を作るために動員され、列車銃撃で犠牲になった方の中に、曽根さんという方がみえます。曽根さんは菰野の湯の山の方だそうですが、お名前も年齢もわかっていません。
おそらく、大橋さん、土井さん、平野さんと同じ40代後半の方と推測されます。
何か心当たりの情報をお持ちの方がございましたら、ぜひお知らせ下さい。
以上の9名の他にも、さらに多くの犠牲者がみえました。目撃されたり、情報が寄せられたりして、断片的にわかっている方たちを紹介します。
亀山車掌区の21期の男性(伊勢出身)
列車の中で救助活動をされていた亀山車掌区20期の方が、胸に「亀山車掌区」と書いてある方を見つけ、「おい、大丈夫か」と抱き起こしたら、背中に大きな穴が開いていて、これはもうだめだと思ったそうです。同じ車掌区ですが、1期下の21期の車掌見習いだったので名前はご存知ではなかったですが、山田(現・伊勢市)の方で、銃撃の日は休みで家に帰る途中だったと聞かれたそうです。
お名前が判明する可能性の高い方ですが、未調査です。(『かけはし』3号のP15を参照)
和歌山の男性(享年49才)
先述の大橋利夫さんの娘さんが、大橋さんのご遺体を引き取りに亀山陸軍病院に行った時、大橋さんの両隣の方のことを病院の人に尋ねられています。右隣の方が先述の平野新七さん、左隣の方が和歌山の方でした。平野さんが47才、大橋さんが48才、和歌山の方が49才で、昔から「七難九厄(しちなんくやく)」と言って「7~9」の年は悪いから気をつけろと言われていたそうで。病院の人と「ちょうどそろっているなぁ」と話されたそうです(『かけはし』2号から抜粋)。
和歌山の方のお名前は覚えてみえませんでしたが、陸軍病院に収容されていることから軍人か軍属だったと考えられます。
名古屋の男性
戦後、亀山市役所に名古屋からご遺族が訪ねて来られたことを、当時市役所で応対された方からお聞きしました。
1994年亀山市議会の会議録にも、中根薫議員の質問の中に記載されています。(『かけはし』2号のP51を参照)
先述の髙阪さんのご遺族は、亀山市役所に行かれたことはないということなので、別の方だとわかっています。
四国の男性(海軍)
犠牲になった方で、身元のわからない5体が、本宗寺(現・亀山市若山町)に仮埋葬されました。そのうち4体はご遺族に引き取られましたが、1体は一周忌の頃まで残っていたそうです。ご遺族が一周忌の時に来られ、亡くなった方は四国出身の海軍の方だとわかりました。ご遺族が「多額のお金を持たせた」と言われるのでご遺体を掘り起こして服を見ると、確かにお金が入っていたそうです。お名前は不明で、お寺の過去帳にも記載されていないそうです。(『かけはし』2号のP42を参照)
赤ちゃんと、赤ちゃんをおぶった女性
銃撃を受けた客車内で、赤ちゃんをおぶった女性が多量の血を流して亡くなっているのが目撃されています。女性はお尻の辺りに銃弾が当たっていたそうです。赤ちゃんも泣きもせず、すでに亡くなっていると目撃された方は感じられました。(『かけはし』2号のP36を参照)
犠牲になった方について、何か情報をお持ちの方は、ぜひお知らせ下さい。