亀山列車銃撃(1945年8月2日)の概要


 国鉄(現JR)の亀山駅を11時32分に発車する予定の102列車は、空襲警報が発令されたために発車時刻が過ぎても亀山駅で停車していました。

 

 この列車は当時の時刻表によると、湊町駅(大阪市)を7時54分に出発して関西線経由で亀山駅に11時17分に到着し、15分停車した後で紀勢線に入り鳥羽駅(三重県)に13時25分に到着する予定でした。亀山駅には同じ時間帯に名古屋発湊町行きの305列車も停車しているので、名古屋や四日市方面から鳥羽に向かうために乗り換える人も多かったようです。

 

 102列車は5~6両編成で、客車はどの車両も満員でしたが、1両目だけは少し空いていたという証言もあります。当時は「アメリカ軍機が列車を狙う時は最初に機関車を撃つから、1両目にはその流れ弾が当たる」と言われ、1両目を避ける人が多かったようです。

 

 列車が出発したのは12時10分頃。この時はまだ空襲警報が解除されていませんでした。

「なぜ汽車を出したのか」と、被害者の救出作業に直面させられた現場近くの地区の代表が事件後に駅で抗議をしています。

 列車に乗っていた軍関係者が出発を急がせたという聞き取りもありますが詳細は不明です。

当時の時刻表。
当時の時刻表。

発車直後に銃撃を受ける

 列車が出発して間もなく、亀山駅の西方から3機のアメリカ陸軍機P51が飛来し、その中の2機が銃撃をしました。

 襲撃に気づいた一人の男性は、鈴鹿川の鉄橋から飛び降りたという話が伝わっています。

 

 その機関車で機関助士をされていた古市勲さん(当時18才)は、銃撃で重傷を負いながらも一命をとりとめ、後にその時の様子を次のように綴られています。(『かけはし』2号から抜粋) 

 鈴鹿川の鉄橋を渡って、もうすぐ下庄トンネルというところまで進行した時、突如右上空から三機編隊の艦載機が急降下し銃撃を加えて来た。運転室右寄りで立っていた私の目に、赤い火花を吹いて迫って来る敵機の姿がはっきり見えた。

 私は危険を察知、咄嗟に運転室床に身を伏せた瞬間、激しい銃声と同時に機関車が集中砲火を浴びたのである。私に弾があたったのかどうなったのか、判断する余裕などなかったが、ただ私の意識ははっきりしていた。弾が機関車のボイラーを貫通し、もうもうと立ち込める蒸気、噴き出す水で視界は完全にゼロだった。機関車が停まっているのははっきりしていたが、噴き出す蒸気と水の音が聞こえるだけであった。

 自分の身体が動かないと感じたあたりで私は気を失った。 


レンガ橋(西側より撮影)
レンガ橋(西側より撮影)

 銃撃現場は下庄のトンネルの手前という話が伝わっていますが、実際にはトンネルとまだ500m以上離れています。

 

 銃撃でボイラーを撃ちぬかれた機関車は走行不能となり、天神中村のレンガ橋の手前(北側)で、漏れた蒸気を吹き上げながら停車しました。

 機関士の上村綱五郎さん(享年42才)は、弾が後頭部を貫通して即死されました。

銃撃現場(東側より撮影)
銃撃現場(東側より撮影)

当時の薬莢(12.7mm機銃弾。中根弘毅さん寄贈)。     下は当時のアメリカ軍12.7mm機銃弾(どちらも当会所蔵)
当時の薬莢(12.7mm機銃弾。中根弘毅さん寄贈)。     下は当時のアメリカ軍12.7mm機銃弾(どちらも当会所蔵)

 2機のP51は旋回して2度目の銃撃をおこない、銃撃は2~3回繰り返されました。木製の客車の中は壮絶な状態になりました。側面に横一列に弾痕が残ったり、天井部が破壊された客車もありました。線路のレールに弾丸が突き刺さったり、レールに弾が貫通した穴が開いたりしているのを目撃した方もいます。

 天神中村地区では、P51から機銃弾の薬莢が雨のように落下し、瓦を割られた家もありました。薬莢は亀山市歴史博物館で1つ、福泉寺(現:亀山市東町)で2つ、当会でも1つ保管しています。

 余談ですが、機関助士の古市さんは、機関車のボイラーに当たって跳ね返った弾片が右胸に突き刺さったので、その日のうちに天王寺鉄道病院(大阪市)に送られ治療を受けます。しかし5日後には大量の重傷者が運び込まれて病室がいっぱいになり、廊下へゴザを敷いての入院生活を余儀なくされました。運び込まれたのは広島駅などで勤務していた国鉄職員で、大半の方が身体一面にケロイド状の火傷を負っていたそうです。原爆の桁違いのすさまじさを物語る逸話です。

 

銃撃を受けた時の車内

 車内で銃撃を受けた時の体験を語って下さった方はこれまでに5人みえ、そのうち3人が8月2日の銃撃と確認されています。

 白木一さん(当時15才)は次のように語られました。(『かけはし』2号より抜粋)

 機関車が鉄橋を渡り、客車が鉄橋の中ほどまで来た頃だったと思います。突然ものすごい爆音とともに、バリバリバリと機銃掃射の音が聞こえので、私たちはあわてて座席の下に隠れました。座席の下が少しくぼんでいて空間になっていたので、そこに伏せていました。空襲に遭ったら、耳と鼻と目を押さえて、口を開けて、少しでもくぼんだ所に入れと当時教えられていました。

 すぐに機銃掃射の音も止み、爆音も遠ざかって行きましたが、列車も停車してしまいましたので、一時も早く逃げ出そうと思い、身体を起こそうとしたら、どちらの方向かはわかりませんでしたが、再度ものすごい爆音とともに機銃掃射の襲撃を受け、その場にかがみこみました。逃げようと思ってもすぐに来るので、そのたびに伏せていました。このような機銃の襲撃を4回くり返し行われた事が記憶に残っています。

 何度も繰り返し銃撃された様子がよくわかります。

 

 伊沢径世さん(当時8才)は次のように語られています。(『かけはし』3号より抜粋)

 亀山を出て少したったら、向かいに座っている窓際の軍人さんの首がカクンと前に倒れました。祖父が私を抱いて座席の下へねじこんだのとほぼ同時だったのでその他のことは見ていませんが、首がカクンとなったのははっきり覚えています。私はリュックを背負っていて、あとから、そのリュックにも血がついているのに気づきました。血だらけというのではありませんが、たくさんしぶきのようについていました。

  座席の下に押し込まれた状態で、みんなが客車で「もうすぐトンネルだ」「トンネルに入ったら助かるぞ」と叫んでいるのを聞いたように思います。私も早くトンネルに入ってと思っていましたが汽車は止まってしまいました(既に止まっていたのかもしれません。記憶はアヤフヤです)。

  それでみんなが外に逃げようと思って、列車から降り始めました。止まっていたのは土手の上だったし、列車から地面まではかなりの高さもあるので怖かったです。

 

 髙阪進さん(当時3才)はほとんど記憶がないそうですが、次のような列車内の状況を覚えてみえました。

 私はその時3才、あと1ヶ月で4才でしたから記憶がほとんどありませんが、列車の中が大騒動だったのは覚えています。列車が停まって、誰かが「伏せろ!」と大声で言われてみんな座席の下などに潜り込みました。僕は通路に伏せてその上にお袋が覆いかぶさってくれました。

 

犠牲になった方々の状況

 銃撃後、自力で逃げられる方は列車の両側から飛び降りて線路の土手を下りました。

 亀山駅まで歩いて避難された方もいますが、近くの畑や集落で横たわったり座り込んだりしている方も多く、そこで息絶えた方もいました。

 近くの集落には、田んぼや藪を超えて多くの方が逃げ込みました。現場近くの家の土間は血の海となり、家の戸板は担架代わりに使われたので1枚もなくなったそうです。

 近くの住民や動員された人たちが救助に駆けつけ、駅まで運びました。

 銃撃された列車は、亀山駅から来た救援車両に牽引されて駅に戻りました。

 客車の中には、亡くなられた方や動けない方が残されていました。

 車内での救助作業をされた国鉄職員の前田寛一さん(当時18才)は次のように証言されています。(『かけはし』3号より抜粋) 

 客車に入って、中にいる人を出しました。亡くなった人よりも生きている人を助けました。列車は5両編成ぐらいで、汽車寄りの2両を主に担当しました。車内で倒れている人に声をかけて、生きているか死んでいるかを判断します。この人はもうあかんと思ったら、後から出しました。まともに当たった人はたいがい死んでいました。亡くなった人は治療せずにホームに置きました。

 足をやられた人はおぶったり、ひきずったりしました。息のある人をホームに並べると、そこからは別の人が治療できる所に処理してくれました。私は列車から出す仕事だけをしました。

 なかなか重くて一人では運べない人もいて、担架もありませんし、列車の中には戸板も入りません。だから、戸板を半分に割って担架代わりにすることを思いついて使いました。

 私は客車の中の歩けない人を運びました。倒れている人が「連れて行ってくれ」と足にしがみついてくると「お前、歩けるやないか」とどなりました。しがみついてくる人は何人もいました。下士官のような人が「連れて行ってくれ」と言うので「お前軍人やろ。ほうて(這って)でもいけるやろ。」と言い返しました。悲惨な状況だったのでこっちも気が立っていました。

 

 亀山駅で機関車整備の仕事をされていた村田 章さん(当時15才)は、休憩時間に垣間見た様子を次のように語られています。(『かけはし』2号より抜粋) 

 客車の中を見たら、国土防衛隊の人が国防色(陸軍の軍服のような茶色)の服を着て、右手を座席の背もたれに回して、立ち上がりかけのような格好で亡くなっていました。どこを撃たれたのかはわからず、血が出た跡も気づきませんでした。

 車両の連結のデッキには女の人が赤ちゃんを負んだままで亡くなっていました。赤ちゃんも亡くなっていたと思います。泣いてもいませんでした。女の人はお尻の辺りを撃たれて、血がたくさん出ていました。 

 

アメリカ軍撮影 M143-Aー6(1946.5.23.)
アメリカ軍撮影 M143-Aー6(1946.5.23.)

鉄道診療所で

 亀山駅構内にあった鉄道診療所には多くの負傷者が運び込まれ、近所の医者も協力しながら懸命の治療がおこなわれました。

 人手が足りずに駅の職員や、電話交換手の女性も治療に動員されました。

 診療所の前を偶然通りかかった豊田 実さん(当時12才)は次のように話されています。(『かけはし』2号より抜粋)

 診療所には怪我をした人が収容されていましたが、すごい数でした。診療所でたくさんの人がうめいていて、生身の身体がたくさん並んで、今にも息が止まるような人を見ると胸が痛みました。

 銃撃を見た時はさほど怖いとも思いませんでしたが、診療所の前を通った時は身震いして、怖いと思いました。

 また、痛くて叫んでいる声に恐怖を感じ、今でも叫び声を鮮明に覚えてみえる方もいます。診療所は壮絶な状況になっていました。

 

遺体は茶農協の倉庫へ

 亡くなった方は駅前の茶農協の倉庫に運ばれました。

 町役場で勤務されていた前川冨美子さん(当時15才)は、役場からの要請で茶農協に応援に行き、遺体が運ばれ並べられる様子を証言されました。(『かけはし』3号より抜粋)

 茶農協には100坪ぐらいの広い土間がありました。そこでお茶の葉を干したり手揉みしたのだと思います。そこに爆撃に遭われた方を担架でつって来て、むしろを敷いて一人ずつ並べていきました。ものを言う暇もなく、大急ぎで次々に運ばれて来ました。

 担架を運んで来る人たちの頭や肩にきれいなピンク色の肉片がついていたのを今でもありありと思い出します。本当にきれいな薄いピンク色をしていました。なぜ頭や肩に肉片がついたのかはわかりません。 

 あんなに広い所にむしろがびっしりいっぱいでした。何人かはわかりませんが、ござの上にズラッと並んでいました。息のある方もありましたが、ほとんど息はなかったと思います。無残でした。そこにはお医者さんはいなかったと思います。

 正確な犠牲者数はわかっていませんが、中根 薫さん(当時17才)の「亀山駅の1番ホームに亡くなった人を並べ、そこに40体ぐらい並べられていた」(『かけはし』2号より抜粋)という証言をもとに、今のところ「少なくとも40人が犠牲になった」としています。

 

軍関係者は亀山陸軍病院へ 

 ただ、すべての死傷者が鉄道診療所と茶農協に運ばれたのではありません。

 軍属を含む軍関係者は亀山陸軍病院に送られ、遺体もそこに安置されました。民間人と軍関係者を分けたのだと考えられます。

 亀山陸軍病院は亀山駅から名古屋方面に2駅行った加佐登駅近く(鈴鹿市加佐登)にありました。

 亀山陸軍病院で父親の遺体と対面した大橋智津子さん(当時19才)は次のように証言されています。(『かけはし』2号より抜粋)

 加佐登駅に着き、駅から陸軍病院まで大雨の中、真っ暗な坂を登って行きました。

 亀山陸軍病院に着くと兵隊が案内してくれて、10畳ぐらいの板間の部屋に行きました。その部屋にたくさんの亡くなった人が寝かされていました。何も敷かずに板間にじかに寝かされていて、兵隊の毛布をかけてもらってありました。10人どころではなく、その部屋にずらっと、2列で頭合わせにして、隣の遺体と引っつけて並べてありました。

 父は入り口の近くに寝かせてあったのですぐにわかりました。元気そうな顔をしていました。上半身は服を着ておらず、包帯を巻いてもらってありました。ズボンには血がたくさんついていて強い臭いがして臭かったです。他の人たちからも同じ血の臭いがしていました。包帯をずらして見ると、弾は右の腕を貫通して右の脇腹に入って、左から出ていました。右の腕は10cmぐらいの穴が開き、右の脇の下にも同じぐらいの傷がありました。でも左側は大きく口が開いていて、そこを縫い合わせてもらってありました。

 

 亀山陸軍病院にも多くの遺体が並べられていたことがわかります。

 亡くなられた大橋利夫さん(享年48才)は千種村(現・三重郡菰野町)の方で、この日は徴用で志摩半島の本土戦陣地を造りに行く途中でした。

 千種村だけでなく菰野の村々から徴用に動員された人たちがこの列車に乗っていて、犠牲者も今のところ4名がわかっています。

 

「首のない赤ちゃん」→「頭の後ろを撃たれた赤ちゃん」

 

 多くの犠牲者が出た中で、当時の記憶として最も語り伝えられているのは「首のない赤ちゃん」をおぶったお母さんの姿でした。

 とてもショッキングなので、多くの方の記憶に残ったのでしょう。この列車銃撃を象徴する犠牲者です。

 2020年の秋に、この赤ちゃんのご遺族と連絡が取れ、お話を聞くことができました。

 お話から、「首のない赤ちゃん」という表記が誤りだとわかりました。

 ご遺族の髙阪 進さん(当時3才。愛知県海部郡蟹江町)は次のように語られました。

 弟は首がなかったのではなく、顔だけ残っていて頭の後ろがありませんでした。弾は脳をかすめていったのだと思います。病院で頭の後ろに綿を詰めてもらって、弟を風呂敷で包んで蟹江に戻りました。 

 後頭部が銃弾でえぐられていたので、おんぶされている赤ちゃんの「首がない」ように見えたのでしょう。

 事実がわかったので「首のない赤ちゃん」という表記を「頭の後ろを撃たれた赤ちゃん」に訂正し、説明板やパネルの表記も2022年夏に変更しました。

 亡くなられた赤ちゃんは髙阪光雄さん。生後わずか9ヶ月でした。

 

お母さんの姿からわかる戦争の悲惨さ 

 

 進さん、光雄さんと一緒に列車に乗っていたのはお母さん(当時30才)、お姉さん(当時9才)、お兄さん(当時8才)です。蟹江町から疎開先に向かう途中でした。お母さんとお兄さんはすでに亡くなられていて、ただ一人当時を語れる髙阪 進さんも当時は4才になる直前。そのため記憶はほとんどないのですが、覚えてみえることが3つあるそうです。一つは先述した銃撃時の列車内の様子、二つ目が列車を降りる時の風景、三つ目が診療所の中で痛くてわめく声が恐ろしかったことです。

 ご遺族の証言はこのように限られていますが、光雄さんをおぶったお母さんの様子は多くの所で記憶されています。時間を追ってご紹介します。

  

 最初に目撃されたのは現場近くの民家(A)です。中根弘毅さん(当時14才)は次のように語られています。(『かけはし』2号より抜粋)

(銃撃から)少ししてから、「助けて―」と全身身震いさせながら女の人が(私の家に)入って来ました。ガタガタ震えていました。私が「奥さん、うちでは何にもできやんで、皆さん駅にいってござるやろで、この道を駅まで戻りなさい」と言いました。

 女性が出て行く時に後ろを見たら、おぶっている子どもの首がありませんでした。おぶっているハンコは血でビタビタでした。その女性が後ろを確かめていたかどうかはわかりません。 

 次に目撃されたのは、少し北の踏切(B)です。天野貞子さん(当時16才)が見られたのは、半狂乱のようになったお母さんの姿でした。(『かけはし2号』より抜粋)

 1人の女の人が叫びながらウロウロしていたのでびっくりしました。気が狂ったように大声を出したりしていましたが、何を言っているかはわかりませんでした。その時は泣いていなかったと思います。その人におぶさった子どもの頭がありませんでした。子どもの首はざくろのように大きく開いて血が噴き出していました。まもなく将校らしい兵隊がやって来て、その女性をどこかに連れて行きました。私は首がないのを見たのでショックでした。吐き気がして食事ができませんでした。

 誰かに教えてもらったのか、自分で気づいたのか、光雄さんの変わり果てた姿を知ったお母さんの凄惨な姿です。

 他にも、AとBの途中を線路沿いに何かを叫びながら、田んぼ道を走って行くお母さんの姿を見られた方もいます。

 

 次に目撃されたのは駅の東側にある踏切近く(C)です。大橋石一さん(当時7才)も鮮明に覚えてみえました。(『かけはし2号』より抜粋)

 線路を南の方向から、30人ぐらいがばらばらに、疲れた様子で歩いていました。ぞろぞろ歩いて来る人を見ていて、ふと女の人を見て、その人がおぶっている赤ちゃんを見たら、首がなくて驚きました。夏なので赤ちゃんは何もかぶってないので、首がないことはすぐにわかりました。女の人は「どぶく」を着て、赤ちゃんを背負って物静かにとぼとぼと歩いていました。

 パニック状態が収まり、静かに駅に向かうお母さんです。

 

 亀山駅のホームでも田中さよ子さん(当時15才)が目撃されています。田中さんは駅の電話交換手をされていましたが、ホームに帰って来た列車を見に行った時にお母さんと出会いました。(『かけはし2号』より抜粋)

 ホームで「4歳ぐらいの子ですけど、ここらへんにおりませんか」と、子どもを捜しているような「どぶく」を来た女性を見ました。小さい子をおんでいましたが、その子を見ると頭がありませんでした。その女性は髪の毛を後ろで束ねて、くるくるっと丸く巻いてありました。

 銃撃直後に一緒に乗っていたお兄さんとお姉さんは、先に列車から近くの林に逃げ込み、後に亀山駅で再会したそうなので、2人を捜していたのでしょう。あるいは年齢を考えると、一時的に進さんを見失っていたのかも知れません。

 

 その後、髙阪 進さんの先述の証言のように、駅の診療所で頭の後ろに綿を詰めてもらった光雄さん。その後、ホームの東にあった建物(D)でお母さんが目撃されています。建物のすぐ近くに住む藤村美代さん(当時14才)の証言です。(『かけはし3号』より抜粋)

(家の)外が何か騒がしくなってきたので、何だろうと思って2階の窓から外を見ました。家のすぐ南側には国鉄の集会所のようなものがありましたが、集会所の中に負傷して運び込まれた血だらけの人が寝かされているのが窓越しに見えました。そして集会所の中で、女の人が立ったまま子どもを胸に抱いて、声をふりしぼって泣いているのも見えました。女の人は30才ぐらいのお母さんで、子どもは血だらけでした。お母さんのエーという悲痛な声は2階の部屋まで聞こえていました。血だらけの子どもを抱いて泣いている姿だけは、今でも目から離れません。

 変わり果てた光雄さんを見て、ふりしぼるように泣くお母さん。深い悲しみと戦争の悲惨さを感じます。

 この後、お母さんと3人の子どもは、風呂敷に包まれた光雄さんと一緒に蟹江に戻られました。

 

身元のわからなかった遺体を仮埋葬

 

 犠牲になった方は、それぞれご遺族のもとへ引き取られて行きましたが、身元のわからない5体が残り、市内の本宗(ほんしゅう)寺に仮埋葬されたそうです。坂倉広美さん(当時14才)は次のように語られています。(『かけはし2号』より抜粋)

 1993年の9月8日に本宗寺の奥さんにお聞きしたら、ご主人が役場に勤めていた関係で、列車銃撃で亡くなった方のうち身元がわからない5体の仮埋葬を引き受けたそうです。このうち、最後まで身元が分からなかった1体は海軍の方で、一周忌の時に四国からご遺族がお寺を訪ねて来られ、多額のお金を持たせたと言われるので遺体を掘り起こすと、確かに服にお金が入っていました。掘り起こした時、遺体が腐ってきていて、臭くてたまらなかったそうです。

 すでにお寺も代替わりをして、当時のことを知る方はおられず、お名前などの詳細もわからないそうです。 

 ご遺族からのご連絡をお待ちしています。