関の地下工場(鈴鹿海軍工廠 関町防空工場)の概要

1.鈴鹿海軍工廠の疎開 

 鈴鹿市に鈴鹿海軍工廠(すずかかいぐんこうしょうという、海軍の軍事工場がありました。広大な工場で、現在のイオンタウン鈴鹿、旭化成、本田技研、鈴鹿サーキットがすべて工場の跡地にできています。

 鈴鹿海軍工廠では、海軍の爆撃機などにつける13mm旋回機銃とその弾、7.7mm旋回機銃とその弾を作っていました。

 戦争末期になると、空襲を避けるために高山(岐阜県)や松阪など5ヶ所に工場を疎開させました。その中でも最大の疎開工場が関の地下工場(関町防空工場)でした。

 

2.14本の地下壕。敗戦までに2本で操業

 地下工場は、観音山と大黒山との谷の両側に7本ずつ地下壕を掘りました。西の大黒山の地下壕が先に完成し、1945年4月から1本の地下壕で操業し、7月にはもう1本でも操業しました。作っていたのは13mm旋回機銃ですが、わずか3ヶ月半の操業でした。

 戦争が終わる1945年の夏にはもう1本が完成し、弾を作るための機械を地下壕に運び込みましたが、操業せずに敗戦になりました。東の観音山側の地下壕は完成せず、掘っている途中で敗戦になりました。

地下壕の内部
地下壕の内部
地下壕の内部
地下壕の内部

3.地下壕を掘ったのは朝鮮人労働者

 地下工場の建設は間組がおこない、地下壕を掘ったのは多くが朝鮮人労働者でした。近くには朝鮮人労働者の飯場も作られました。発破(ダイナマイト)を使って掘り進める危険な作業で、地下壕の中にはダイナマイトを入れるための穴も残っています。 

4.工場での操業の様子 

 操業した2本の地下壕は隣り合っていて、横穴でつながっていました。2本の地下壕で13mm旋回機銃の銃身の整形、ボウリング、螺旋づけをして、横穴でできた製品の検査をしていました。

 工員は毎日12時間ずつの二交代制で、夜勤入りの日は残業も入れて朝7時から翌朝7時までの徹夜作業になりました。作業は分担制で、自分の担当作業をしたら次の人に部品を回す流れ作業をしていました。

 地下壕の中は大変な湿気で空気も悪く、天井から岩が落下してきたこともあったそうです。働きました。食事もだんだん少なくなったので空腹だったそうです。休みが取れずに体調を崩し、結核などで亡くなった方もいました。また、仕事のことは極秘で、自分の仕事以外は見たり聞いたりすることもできなかったそうです。    (つづきます)