少しずつ更新します。最終更新は2024年1月26日です。
全国の空襲や戦災を調査している方々が最近注目しているのはアメリカ軍の資料です。米軍資料を見ると、アメリカ軍は非常に論理的に作戦を遂行して結果を分析しています。そして資料を分析することで、攻撃した側からの空襲の概要がつかめます。米軍資料から亀山列車銃撃事件を見てみましょう。
アメリカの陸軍機P51(硫黄島のⅦ戦闘機集団)
亀山で列車を銃撃したのはアメリカの陸軍機P51です。このP51は、硫黄島を基地にしたⅦ(第7)戦闘機集団に属していました。
アメリカ軍は日本軍との壮絶な戦闘の末、1945年3月に硫黄島を占領します。そしてすぐにP51の基地を造ります。硫黄島に基地を作れば、P51は日本本土を1時間から1時間半ほど攻撃しても十分基地まで帰って来れるようになるからです。
P51は最初、マリアナ諸島のサイパン・テニアン・グァムの各基地から日本本土を空襲する爆撃機B29の護衛をしました。
爆弾を投下するための爆撃機は、自動車で言えばトラックのようなもので、スポーツカーのような戦闘機に攻撃されると危険です。そこで、戦闘機のP51が硫黄島からB29の編隊に合流して、日本軍の戦闘機に迎撃された時にP51が応戦しました。
P51は硫黄島からB29をエスコートしながら、またB29に誘導してもらいながら日本本土に向かい、B29が日本を爆撃している間に護衛をしたり、独自でロケット弾や機銃で攻撃をしたりします。そしてまたB29と一緒に硫黄島に帰りました。
硫黄島はちょうど、日本本土とマリアナ諸島の中間地点にあります。アメリカ軍にとって、日本本土との中間地点である硫黄島で日本の戦闘機がB29攻撃のために待ち構えているのと、P51が護衛のためにスタンバイしているのとでは状況が大きく変わります。日本軍が硫黄島を死守したかった理由もここにあります。
戦争末期になると、P51の編隊が少数のB29に誘導してもらって、あるいは独自で日本本土を攻撃することも増えました。
戦争末期の1945年4月になると、アメリカ軍は占領した沖縄の伊江島にも基地を造り、そこからも陸軍機が日本を空襲するようになります。
Ⅶ戦闘機集団の作戦計画
工藤洋三氏(山口県)に提供して頂いたアメリカ軍資料によると、硫黄島に配備されたⅦ戦闘機集団のP51の作戦計画は次の通りです。
○1945年4月7日東京地域、12日東京地域、16日 鹿屋(鹿児島県)、19日 厚木・横須賀、22日 明野・鈴鹿、26日 国分、30日 立川
○5月 8日 木更津(千葉県)、17日 厚木、19日 立川、24日 松戸・所沢、 25日 松戸・所沢、28日 霞ヶ浦(茨城県)、29日 横浜
○6月 1日大阪、7日大阪、8日 各務原・明治、10日東京地域、11日所沢、15日 大阪、19日 各務原・明治、23日 各務原・百里ヶ原
26日 本州・名古屋・神戸・大阪、27日 霞ヶ浦・筑波・印旛
○7月 1日 霞ヶ浦・伊丹・本州・浜松・鈴鹿、
4日 印旛・霞ヶ浦・筑波・横須賀海軍基地、
5日 下館(茨城県)・谷田部(茨城県)・Yawatasaki(不明)・成田、
6日 熊谷(埼玉県)・成増(東京都)・香取(千葉県)・八街(千葉県)、
7日 成増・調布・桐生・熊谷、 8日 百里ヶ原・八街・所沢・調布
9日 伊丹・西宮・浜松・豊橋、 10日 阪神・佐野・西宮・徳島、
14日 明治・各務原
15日 明治・河和(愛知県)・各務原・名古屋・明野・鈴鹿、
16日 清州・小牧・岡崎・明野・鈴鹿・亀山
19日 各務原・名古屋・明治・伊丹・西宮・阪神
20日 明治・岡崎・亀崎・各務原・小牧・名古屋・浜松
22日 伊丹・阪神・佐野・高松・徳島・湊(淡路島)
24日 三方原・浜松・駿河湾
28日 筑波・百里ヶ原・茂原・熊谷・調布・相模・下館・谷田部・木更津
30日 阪神・丹波市(奈良県)・佐野・Kami(不明)・西宮・大阪・湊・加古川・姫路
○8月 1日 伊丹・西宮・明石・岡崎・名古屋・豊橋
2日 清州・小牧・岡崎・姫路・伊丹・阪神・鈴鹿・明野・亀山
3日 筑波・百里ヶ原・谷田部・熊谷・調布・厚木
5日 香取・霞ヶ浦・印旛・厚木・立川・所沢
6日 熊谷・高萩(埼玉県)・相模・霞ヶ浦・鹿島・下館
7日 豊川海軍工廠・調布・相模・厚木
8日 阪神・丹波市・佐野・高松・湊・徳島
10日 東京地域
14日 大阪・清州・小牧・名古屋・明野・鈴鹿・亀山
この作戦計画は天候などにより実行されずに終わったり、ターゲットを変更したりすることもありますが、P51部隊の攻撃の意図を知ることができます。
P51のターゲットは何か?
〇第一目標は日本軍の飛行場
P51は小型機で武器は機銃とロケット弾なので、爆撃機のような都市空襲はおこなわず、主に飛行場などをターゲットにしています。
つまりB29が大都市や中小都市の空襲をおこなう時に、迎撃してくる危険性の高い飛行場を破壊することをねらっています。
ですから、上の作戦計画に書かれている地名は、特に説明がない場合は陸軍の飛行場や海軍の航空基地を表しています。
たとえば「阪神」というのは大阪府八尾にあった大正陸軍飛行場のことです。
「亀山」は亀山市能褒野町にあった陸軍北伊勢飛行場、「鈴鹿」は鈴鹿市白子にあった鈴鹿海軍航空基地のことです。
上の作戦計画を見ると、明野陸軍飛行場(伊勢市)や鈴鹿海軍航空基地が4月の非常に早い時期に、東海地方はもちろん関西地方を含めても最初のターゲットに選ばれていることに驚かされます。また、P51部隊の最後の標的として書かれているのが亀山であることも不思議な偶然です。
〇飛行場までの間にねらったもの
飛行場までの途中、または飛行場を攻撃して帰る途中に、パイロットの判断で攻撃するものも決まっていました。
工場、発電所や変電所、送電線、駅、鉄道、橋、港、灯台、船などです。
日本のパワーラインに関わるものが攻撃対象になっていました。
しかし、第一目標は飛行場なので、これらへの攻撃は副次的なもので、短時間で攻撃を終えて第一目標に向かいました。
亀山の列車銃撃も、愛知の飛行場へ向かう途中でした。(事項で詳しく説明します)
1945年8月2日の攻撃
それでは、亀山列車銃撃があった1945年8月2日にP51部隊(Ⅶ戦闘機集団)はどのような動きをしたのでしょうか。工藤洋三氏(山口県)から提供して頂いたアメリカ軍資料から見てみましょう。
〇Ⅶ戦闘機集団の3つのP51部隊
Ⅶ戦闘機集団は第15、第21、第506という3つの戦闘機群団(P51部隊)があり、50回の攻撃のほとんどをこの3群団がおこなっています。他には第414戦闘機群団というP47の部隊が3回だけ攻撃に加わっています。
8月2日は第15戦闘機群団(P51が50機)、第506戦闘機群団(54機)、第21戦闘機群団(46機)の順で、ほぼ1時間おきに硫黄島を離陸して、B29に誘導されて日本に来ました。いずれの部隊も攻撃目標は飛行場で、その途中で発見した発電所や送電線、工場、港、灯台、そして列車や駅も攻撃することになっていました。
第15戦闘機群団は昼の12時10分に日本に到着し、伊勢湾の西側を北上して清洲飛行場(愛知)を攻撃する予定でしたが、雲が多くなったために伊勢湾の東側に進路を変えて小牧飛行場を攻撃、その後で清洲飛行場を攻撃しています。
第506戦闘機群団は姫路から大阪にかけての飛行場を攻撃するために13時前に到着しましたが、関西地方はすでに雲におおわれていたので目標の飛行場の攻撃はできずに大阪湾沿いの施設を攻撃して潮岬から帰路につきました。
最後に来た第21戦闘機群団は鈴鹿海軍航空基地を第一目標、亀山の北伊勢陸軍飛行場を第2目標、明野飛行場(伊勢市)を最終目標としていましたが、到着した14時5分には雲が広がっていて目標を発見できず、伊勢湾の東側に目標を変えて岡崎から明治飛行場、豊橋を攻撃しています。
〇亀山で列車を銃撃した部隊は?
亀山で列車を銃撃したのは、時間と飛行コースから考えて第15戦闘機群団です。愛知県の飛行場を攻撃するために50機が伊勢湾西岸を飛行中、たまたま列車を発見した一部のP51が通りすがりに銃撃していったと考えられます。
〇雨雲に助けられた亀山と鈴鹿
聞き取り調査から、この日は西から天気が崩れ、三重では昼過ぎから雲が広がって次第に雨になり、夜には大雨になったとわかっていましたが、アメリカ軍の資料からもそれが裏づけられました。もし雲が広がっていなければ、第21戦闘機群団の46機のP51が鈴鹿海軍航空基地と亀山の北伊勢陸軍飛行場をロケット弾や機銃で攻撃をして、さらに深刻な被害が出ていたことになります。
1945年8月2日の第15戦闘機軍団(任務報告書から)
この日、第15戦闘機軍団は40機が硫黄島を離陸することになっていましたが、予備機も加わり50機が離陸。離脱する飛行機もなく50機が日本に到達しました。第1目標は清州飛行場、第2目標は小牧飛行場、第3目標は岡崎飛行場でした。目標にいた時刻は12時10分~13時5分と記録され、まず小牧飛行場、その後で清州飛行場を攻撃しました。この日の攻撃で、機銃弾を34345発、ロケット弾を81発使っています。
第15戦闘機軍団には、第45戦闘機中隊、第47戦闘機中隊、第78戦闘機中隊の3つが所属しています。報告書によると、小牧飛行場では一つの戦闘機中隊が格納庫や修理工場、建物などをロケット弾で攻撃しました。二つの戦闘機中隊は背後でカバーしていましたが、その後降下して飛行機や格納庫、機銃陣地などを機銃で攻撃しています。その後、稲沢操車場を機銃で攻撃、残っていたロケット弾も使いました。
それから清州飛行場とその北にあった工場を機銃で攻撃し、硫黄島に戻っています。(つづきます)