関の地下工場(鈴鹿海軍工廠 関町防空工場)の証言から

 関の地下工場についての証言をご紹介します。

 聞き取り調査をしたのは1993年~2005年頃で、話を聞かせて頂いた方の大部分はすでに故人です。

 証言から関の地下工場の様子や当時の状況などが伝われば幸いです。

 

最終更新は2024年5月3日(金)です。

 


関の地下工場の係官をした(Y.Ⅿさん 1923年生まれ)

 1943年9月に金沢高等工業学校を卒業して、10月1日に33期で海軍省に入り、海軍技術見習い尉官になりました。以前は海軍技師になるのは東大工学部造兵学科の人でしたが、これだけでは足りなくなったので帝大工学部まで広がり、戦争中には日大などの私立も来るようになり、さらに高等工業などの専門学校からも採用するようになっていました。

  1944年3月に鈴鹿海軍工廠へ来ました。実習を3ヵ月ぐらいして、5月に高等官8等の海軍技術少尉になりました。高等官8等から高等官待遇になります。名誉だけではなく、それに応じたお金がもらえました。私たちが海軍に入る時に、軍服や背広等の支度金として500円くれました。給料は民間の倍ぐらいありました。私らの給料は100円で、当時の教師は50円でした。

 私が行ってから第三機銃工場が新設になり、そこが主に二式一三ミリ旋回機銃の工場でした。できたのは1944年6月でした。本家は豊川海軍工廠でしたが、二式を鈴鹿に移したのです。ちなみに第1機銃工場は七ミリ七機銃の組み立てをして、第二機銃工場はその部品を作っていました。

二式十三ミリ旋回機銃のこと 

 それまで二式一三ミリの固定機銃は豊川海軍工廠で作っていました。本家はアメリカで、そのコピーでした。旋回機銃はドイツのを見本にして作りました。

   二式一三ミリ旋回機銃は艦上爆撃機につけます。艦上爆撃機は爆弾を積んでいるから足が遅いので零戦が護衛につきます。戦闘機は敵の後ろに回ったら勝ちですが、爆撃機はそれができないので旋回機銃を後ろにつけて応戦しました。

   ちなみに戦闘機は一人乗りですから、操縦しながら旋回機銃は射てません。ですから、戦闘機に旋回機銃はつけません。

 鈴鹿海軍工廠では、一日20挺が目標でしたが、実際には10挺少しでした。関でも二式一三ミリ機銃の部品を作って、本廠へ送りました。本廠で組み立てて、実射の試験をして、性能が悪くて戻るのも一部あって、出来上がるのが一日に10挺ぐらいでした。ですから、月に300挺ということになります。鈴鹿海軍工廠でできた武器は、他の工廠と同じように空技廠へ納めます。約1年間 、一三ミリ旋回機銃を作りましたが、機銃を乗せる飛行機がなく、本土決戦のために空技廠に保管してあると聞きました。

関の地下工場へ 

 関へ初めて行ったのは1945年2月ぐらいの寒い頃でした。関に機械を運ぶ時に、自分に行けと言われたのです。機銃部の作業主任の山下少佐が金沢の先輩で、この人が関出張所主任になったので、先輩後輩の関係で私が行ったのだと思います。でも、山下さんは本廠で忙しくて、関へは2回来てくれただけでした。私一人で行かされたのでテンテコマイでした。22才にそういう仕事をしろというのは無理です。でも、それを真面目にやろうとするから、優等生は過労で結核になって死にました。

  関出張所へは第三機銃の3分の1が来ました。本廠に3分の1、あとの3分の1が神戸中学校に行きました。3人の係官のうち、金沢から入廠した2人が関と神戸中に行きました。関の出張所には銃身もき筐(きょう)も来ていましたし、私は庶務なども抱えていました。き筐は銃の本体で銃身は筒の所で、どちらも塊をむいて作り出していました。銃身が一番大切な工程でした。

  ちなみに第二機銃は高山に行きました。大聖寺や松阪工業のことは知りません。(註:大聖寺と松阪工業は火工部)

地下工場の施設 

 トンネルは2本か3本だったと思います。地元の人が2本と言うならそうだと思います。たぶん3本目を待っていたんだと思います。地図で言うと、西側の一番北の2本の可能性が高いです。こんなにたくさん穴の計画があって、しかも実際に掘られていたとは知りませんでした。東側にも穴があったことも知りませんでした。全体を1回グルッと回って、2~3回とは行きませんでした。学校を出て工場に行って100分の1ミリの製品を作るのに明け暮れていたので、他のことは本当にわかりませんでした。トンネルにも火工部はいたと思いますが、はっきり知りません。ただ、女性の髪の毛の色が火薬の副作用で変わっていたのは覚えています。

 間組との連絡は総務部の仕事なので、迂闊なことを言うと総務部に怒られますから、私は挨拶を受けた程度です。

 事務所は工場に近い小高い所でした。建物は小さなバラックでした。50畳ぐらいの一階建てでした。守衛は事務所の下にありました。守衛は一ヶ所だったと思います。守衛をしていたのは総務部の人で、何かあったら自分に話が来ますが、何もありませんでした。

 機銃部の鍛造工場が道添いにありました。ここでは金属に焼きを入れて強くしたり、金属をやわらかくして、例えば四角を長四角にするなど寸法を少し変えたりしていたと思いますが、私は機械加工に専念しているので鍛造の意味もわからず、すべてをまかせていました。

 事務所は工場に近い小高い所でした。建物は小さなバラックでした。50畳ぐらいの一階建てでした。守衛は事務所の下にありました。守衛は一ヶ所だったと思います。守衛をしていたのは総務部の人で、何かあったら自分しかいないので話が来ますが、何もありませんでした。

宿舎や工員のこと 

 私の宿舎は、まず瑞光寺にいて、地主さんの家に変わり、そこにずっといました。町の中の田中醤油が烹炊場になっていて、工員はそこへ朝昼晩と食事に行きました。私は「食事は余分なものはいらないから、工員と同じようにしろ。ただ、みんなで食べるのは面倒だから事務所で出せ」と言って、食事は事務所でしました。食事はそんなに嫌なものではなかったですが、土曜に本廠へ報告に戻り、夜は本廠の高等官宿舎に泊まると、 やっぱりここの食べ物はいいなぁとは思いました。本廠の高等官宿舎に泊まるのが息抜きになっていました。しまいごろは事務所でねていました。

 来ていた工員は3000人の第三機銃を三等分したのだから1000人弱と思っていました。機械の数から考えても1000人弱になると思います。フライス盤は一つの機械に5人つくので、昼夜だから10人です。他の機械も2人ずつはつくので昼夜だと4人です。

 ただ、宿舎から考えるともっと少ない気もします。関の記憶は、ただひたすら機銃を作ろうとしたので、人事についての仕事は覚えていません。むしろ数などは地元のおばあさんの方がよく知っているのではないでしょうか。

 私の所に来ている工員はベテランが多かったです。銃身や機筐は大きいのでオシャカを出さないようにしていましたからベテランが多かったのです。関で作った銃身と機筐などは本廠へ持って行きました。悪かったら叱られますが、叱られたことがないのが誇りでした。作業主任がかばってくれたのかもしれませんが、各土曜日に帰っても何も言われませんでした。うまくいっていなかったら作業主任の山下少佐も来るはずですし、合格率は余所より良かったと自分では思っています。

けがや病気のこと 

 落盤で怪我をしたことはなかったですが、「あぶなかったね」ということや小さいのはよくありました。自分の体のこともあるので、怪我はもちろんのこと、体についてはうるさく言いました。

   大きい問題はなかったです。もし怪我や病気があれば、応急の手当てなら町医者でもできますが、汽車に乗せて本廠へ連れて行くことになっていたと思います。

   町の人が「衛生軍曹がいた」と言われたそうですが、衛生軍曹という人には関わったことがありません。町の人がいたと言うなら事実だと思いますが、常駐ではなく時々来ていたのではないでしょうか。また、海軍には軍曹という階級はありません。軍曹は二等兵曹といいます。

 私の部下は工員だから作業服ばかりで、軍服を着ている人はいないので、軍服を着ている衛生軍曹がいたら目立つはずです。服の襟筋(きんすじ)に軍医は赤、技術将校はえび茶、主計は白がついています。

加治大尉のこと 

 関の係官は私一人でしたが、敗戦まで1ヵ月もない頃に加治さんが来ました。加治さんは第二機銃工場の係官でした。加治さんは鈴鹿海軍工廠に一番古くからみえた人で、変な意味でなく「鈴鹿の主やなぁ」と言われていました。

 加治さんは当時大尉で1年先輩ですから、加治さんが私の仕事をするはずですが、実際には私がしていたし、関に泊まってもいなかったし、敗戦後も関にいなかったので、加治さんは通ってできる仕事をしていたと思います。加治さんと一緒に仕事をした覚えはありません。

(つづきます)